大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成6年(オ)1702号 判決

上告人(被告)

大槻善章

ほか一名

被上告人(原告)

神瀬和由

ほか一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告補助参加代理人藤田良昭、同野村正義の上告理由について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、神瀬和也が上告人北村尚一との関係において自動車損害賠償保障法三条にいう「他人」に当たるとした原審の結論を是認することができる。論旨は、原判決の結論に影響のない事項についてその違法をいうに帰するか、又は独自の見解に立つて原判決を論難するものであつて、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 尾崎行信 園部逸夫 可部恒雄 大野正男 千種秀夫)

上告理由

原判決は、亡神瀬和也が自動車損害賠償保障法第三条にいう他人に当たると判断した点において最高裁判所の判例と相反し同法に違背したものであり、それが判決に影響を及ぼしたことは明らかである。

一 運行供用者に関する最高裁判所判例

1 自動車損害賠償保障法(以下、自賠法という)第三条の「自己のために自動車を運行の用に供する者」とは、自動車の運行についての支配権とそれによる利益が自己に帰属することを意味する、と法制定時の立案担当者は解説し(自動車保障研究会・自動車損害賠償保障法の解説・改訂一九七〇年版二六頁)、最高裁もまた最判昭四三・九・二四判時五三九・四〇(子から常時借用した父)に至つて、運行供用者とは「自動車の使用についての支配権を有し、かつ、その使用により享受する利益が自己に帰属する者を意味する」と右解説に沿う定義を示した(同旨・従属的な屑鉄運送部門担当業者に関する最判昭四四・一・三一判時五五三・四五)。

その運行支配については、当初の直接的・現実的支配(レンタカー業者に関する最判昭三九・一二・四民集一二・二〇・四三)はもはや要求されず、「少なくとも事実上自動車の運行を支配管理し得る地位にあつた」場合は「支配管理下における運行については、自賠法にいう保有者として責を負う」として間接的・支配可能性で足るとされている(貸金債権の担保権者に関する最判昭四三・一〇・一八判時五四〇・三六)。

更に、運行が客観的には支配関係に基づくと判断される場合(修理業者に関する最判昭四四・九・一二民集二三・九・一六五四、下請人の被用者に関する最判昭四六・一二・七判時六五七・四七)、運行について事実上(実質上)の支配力を有し、かつ、運行の利益を享受している場合(専属的下請業者に関する最判昭四四・九・一八民集二三・九・一六九九、被用者持込み車私用運転に関する最判昭四六・四・六判時六三〇・六二)等にも、運行供用者が肯認されるとされた。

運行利益の帰属についても、必ずしも現実的・具体的利益の享受を必要とせず、顧客サービスなどの間接的利益(自動車販売会社の代車提供に関する最判昭四六・一一・一六民集二五・八・一二〇九)をも含め、「運行を全体として客観的に観察する」客観的外形的評価が許されている(信用組合常務理事車の無断私用運転に関する最判昭四六・七・一民集二五・五・七二七)。

2 このように運行供用者性を考察する視点は広く拡大されて行ったが、最判昭四五・七・一六判時六〇〇・八九(一家の責任者としての営業総括者に関する事案)以降、「社会通念に基づく客観的立場から評価」するその後の判例の基礎が確立されたとみられる。すなわち同最判は、「自動車の運行について指示・制御をなしうべき地位にあり、かつ、その運行による利益を享受していた」者を運行供用者として肯認することにより、運行支配の意義内実を「運行についての指示・制御の可能性」として捉えた(いわゆる支配可能性説)。

そして更に、最判昭四七・一〇・五民集二六・八・一三六七(陸送車所有者に関する事案)及び最判昭四八・一二・二〇民集二七・一一・一六一一(タクシー窃取事案)は、一歩進めて「運行を指示・制御すべき立場」という「指示・制御の責務」の面から判断するいわゆる支配責務説に至つた。

これに加え最判昭五〇・一一・二八民集二九・一〇・一八一八(登録名義人となつた父に関する事案)は、「自動車の運行を事実上支配・管理することができ、社会通念上自動車の運行が社会に害悪をもたらさないよう監視・監督すべき立場にある」者を運行供用者と認めた。

同最判に関して議論はあるが、従来判例が示して来た「支配の可能性」、「事実上の支配」概念に、「監視・監督すべき立場」という「支配の責務」の面から限定を加えたものとして、従前判例理論の延長線上にあると評価する多数説が説得力に富む。

3 こうして現在の判例理論は、「社会通念上、自動車の運行に対し支配を及ぼすことのできる立場にあり、運行を指示・制御すべき責任があると評価される場合」に運行供用者責任を肯認する、との理解が一般的とされている。

(以上、主要参考文献として福永政彦「運行供用者概念の原状と問題点」新・実務民事訴訟講座5四九頁、同「判例からみた運行供用者としての限界」季刊実務民事法4二四頁、同「運行供用者責任」裁判実務大系8五三頁、加藤新太郎「運行供用者責任論の現代的課題」現代民事裁判の課題〈8〉八五頁、伊藤文夫「運行供用者について」保険法学の諸問題(田辺記念)二五頁、同「運行供用者責任」新損害保険双書〈2〉三九〇頁、法曹会・最高裁判所判例解説(民)前掲民集掲載最判解説など)

二 下級審裁判例

1 下級審の判例は、以上の最高裁判例をリード又はフオローしつつ運行供用者性の判断を積み重ねて来たが、そのうち複数の共同運行供用者の一人が被害を被つた場合の他の運行供用者の責任(いわゆる共同運行供用者間の他人性の問題)に関する公刊裁判例を別表に分類した。

同表の「被害者」及び「保有者」欄記載の者はすべて運行供用者と認定されたものである(「運転者」欄の大半の者も同様)。被害者となつた運行供用者は、自動車所有者又はその親族、借用権者が多くを占めるが、それ以外に友人、同僚、被用者、グループ仲間、無断運転者などもあり、前記の認定基準ないし視点から運行供用者性が広く肯定されていることが読み取れる。

2 中でもドライブという共同目的で交替運転する場合、運転免許保有者・運転関与者は、たとえ運転従事中でなくとも運行供用者とされるのが一般である。原判決は和也につきこれを否定しており、事案を異にするとはいうもののそれ自体特異な判決である。

下級審における運行支配概念の理解をみるため、所有者被害事案等は除いてドライブ事案数例の判旨を左に摘示する。

(1) 山口地下関支判昭四五・一〇・三〇判タ二六一・三三五【第一表ANo.五】

(遊興グループ四名が保有者に無断でドライブ)事故車はグループの支配下にあり、同人らの利益のために運行の用に供され、四名とも運行供用者である。

(2) 名古屋地判昭四七・三・二二交民五・二・四一九【第一表ANo.八】

(父所有車を娘が友人と交替運転でドライブ中、助手席で娘死亡)両名に貸与又は使用許諾され、運行目的・計画立案及び運行それ自体も両名ほぼ対等な立場で関与し、娘も運行供用者である。運行支配は、現にハンドルを握つていたか否かという具体的運転の有無のみにかかわりなく認められ得る。

(3) 札幌地判昭四九・一〇・一六交民八・四・九九一【第一表ANo.一四】

(義兄所有車を遊びのため持ち出し同僚らとドライブ中、助手席で死亡)遊興目的で無断で持ち出しドライブに使用中発生した事故で、運行支配・利益を有する。たまたま友人が運転し、被害者が仮眠中であつても判断を妨げない。

(4) 名古屋地判昭四九・一二・一一交民七・六・一八四九【第一表ANo.一五】

(無免許高校生が父の会社保有車を無断で持ち出し、友人と交替運転でドライブ中、助手席で死亡)事故当時たまたまハンドルを握らず助手席に同乗していても運行支配を有し、運行供用者たる地位を離脱していたものとは認められない。

(5) 福岡高判昭五三・一・一八交民一一・四・九五三【第二表No.一四】

(所有者の子Aから転借したBが運転して学友C・D及びE女とドライブ中、C・D・E女が死傷)C・Dがドライブを計画、Bと相談の上Aから転借し、Bが運転、途中ガソリン代をDが支払い、Bの帰宅提案にC・Dとも賛同せず走行を継続させたもので、B・C・D三名とも運行を支配し、その利益を享受していた(E女は、たまたま途中から顔見知りのBに誘われ同行したもので、運行供用者ではない)。

(6) 大阪地判昭六〇・一一・二六交民一八・六・一五四〇【第二表No.二五】

(貸主AからBが借用、友人C・Dと交替運転して遊び回りC運転中にD受傷)Dは後半は運転せず同乗していたものであるが、Aと共に共同運行供用者である。

(7) 高松高判平二・七・二〇判タ七四六・一八六【第三表No.一九】

(学生五名がレンンタカーでドライブ、免許保有者A~D四名が交替運転しAが運転中にDが死亡)四名は運転練習のためドライブ旅行を計画し、共同で借り受け、共同で運行の用に供していたもので、四名は共同運行供用者である。

(8) 横浜地判平三・四・二二週刊自動車保険新聞平四・三・一八【第二表No.三四】

(大学サークルの記念旅行でA・B・Cがレンタカーを借り、飲酒後、運転は最初Bが担当、その後の交替状況は不明。ドライブ中B・Cが死亡)A・B・Cとも運行を支配し、その利益を享受していた。

(9) 東京高判平三・一〇・三〇平三(ネ)二〇五九【第二表No.三六】

((8)横浜地判に対するBの控訴審)A・B・C三名一体としての運転行為とみうるし、Bの誘いで運転開始、最初はBが運転したから、BはAと共に運行供用者である。

〈(9)東京高判の上告審・最二小判平四・四・二四平四(オ)三一〇【第二表No.三七】は、原審判断を正当とした。〉

三 原判決の問題点

1 ところで、原審で確定した主要な事実関係は次の通りである。

イ 事故車は上告人北村尚一の所有であるが、同人は普通運転免許を有せず、運転資格はない。

ロ 上告人大槻善章は普通運転免許を取得していたが、事故当時免許停止処分中で運転資格を有していなかつた。同人はその旨を北村には停止処分を受けた頃に、和也には事故車の運転を交替した後に話した。

ハ 事故当日夕方、和也、北村及び訴外笹井哲也はパチンコ中、和也がドライブでも行こうかと言い出した。

ニ 和也は北村に自動車を貸してくれるように頼んだ。

ホ 北村はガソリン不足のため躊躇したが、和也がガソリン代を出してやるというので、これを承諾した。

ヘ 北村の電話を受けて、大槻もドライブがしたいと言い出した。

ト 和也が運転し、大槻を助手席に乗せ、四人でドライブに出掛けた。

チ 事故現場から約四キロメートル地点で停車、話をした。大槻が運転したそうにしていたため、北村が「運転してみるけ」と声をかけ、和也も「運転うまいらしいな」と同調した。

リ 大槻は運転席、北村は助手席、和也は後部座席に移動した。

ヌ 大槻が時速約六〇キロメートルで運転進行したため、北村は「回転数を四〇〇〇回転以内にして走つてくれ」と指示した。

ル 大槻は途中から約八〇キロメートルに加速した後、本件事故を惹起した。

2 原判決は、以上の事実関係を前提として、和也が自賠法三条に定める「他人」に該当するかどうかについて判断した(原判決一三枚目以降)。

しかし、その判断には多くの問題や疑問が存在する。

(一) 第一に、大槻及び北村が「事故車の運行供用者であつたことは明らかである」とし、そのこと自体に異論はないが、大槻に関する認定論拠としては「本件事故当時、事故車を運転し」ていたと判示するだけである(一三枚目)。

運転には「他人のために」する運転者の運転(自賠法二条〈4〉)と、「自己のために」又は「自己のためにも」する運行供用者の運転(同法三条)があり、原判決は大槻につき後者とみた訳である。

(二) それならば、では一体何故和也は「単に北村から運転を依頼されてこれに従事したに過ぎないとみるのが相当というべき」なのであろうか(十四枚目)。

大槻と和也とは、ドライブ目的での運行における運転者たる点において差異はなく、ドライブの楽しみを享受する両名は当然「自己のために」も運転していたこと議論の余地はない筈であるにもかかわらず、大槻は「自己のため」、和也は「他人のため」の運転とすることは、理解し難い。運転資格はともかくドライブ参加者としては立場を同じくする大槻が「自己のために」する運転者で運行供用者であるならば、和也もまた同様でなければならず、原判決の判断は明らかに誤つている。

(三) 結局原判決は、現に運転しているか否かに両者の差異を見ているようである。

事実原判決は、大槻は「事故当時、事故車を運転し」ており「運行供用者であつたことは明らかであるけれども、和也は事故車の所有者でも運転者でもなく、後部座席に同乗していて事故に遭つたもので」(一三枚目)、「現実に運転していない和也に事故車の運行支配があつたことを肯認しなければならないものではない」(一六枚目)としているのである。

だが、それこそ運転行為と運行支配とを混同するもので、前掲下級審判決例の判示にもある通り、「現にハンドルを握つていたか否か」と運行支配の有無とは別問題である。原審判断は前述多数の最高裁判例が構築して来た運行支配概念に明らかに背反するものと言わざるを得ない。

(四) 同じことは原判決の次の判示にも表われている。すなわち「大槻と運転を交替して後部座席に坐つてから後の和也は、大槻の運転につき具体的に指示を与えるなど事故車の運行を具体的かつ直接的に支配する立場にはなかつたものというよりほかはない」としている点である(一五枚目)。

「運転交替」までは「運行を支配する立場に」あるが「交替後はその立場にない」と言うのは、「ハンドルを握つている」間だけは運行供用者で交替後はその地位から離脱するとみるものであつて、元来「運行を指示・制御すべき立場」は運転操作従事の有無に直接左右されるものでないことが理解されていない。

(五) 原判決は、運転交替後の和也が「運行を支配する立場になかつた」ことを示すために、「走行開始時から事故発生時までの全過程を通じて、事故の防止につき中心的な責任を負い、運転者に対していつでも運転交替を命じたり、その運転につき具体的に指示をすることができる立場にあつたのは、事故車の所有者としてこれに同乗していた北村で」あるとした(一四~一五枚目)。

けれどもこれは、複数の運行供用者が存在する場合に、具体的運行に対する支配の程度の優劣、すなわち共同運行供用者間の他人性の判断基準として最判昭五七・一一・二六民集三六・一一・二三一八(いわゆる青戸事件)が打ち出した理論であり、運行支配の有無、すなわち運行供用者性そのものの判断基準ではない。「事故防止につき中心的な責任」を負わない運行供用者もあり得るのであつて、現に原判決自身が運行供用者と認定した大槻などは、その例であろう。

したがつて、この最判理論を援用して和也の運行供用者性を否定することは、甚だ当を得ない。

(六) 最高裁判例は、先に見たように、自動車の運行について「指示・制御をなしうべき地位にあり、かつ、その運行により利益を享受し」、ないしは「運行を指示・制御すべき立場」にある者、あるいは「社会通念上、自動車の運行に対し支配を及ぼすことができる立場にあり、運行を指示・制御すべき責任があると評価される」者を、運行供用者としてその責任を肯定するものと解される。

原判決は、「走行速度の指示、停発車、進路変更、運転者の交替等の自動車の運転に関する指示は…運転資格のない所有者である北村においてもこれをなし得たことはもちろんである」とする(一五枚目)が、運行供用者(所有者)である北村は、運転資格の有無などとは無関係にかかる「指示」を「なしうる」ばかりか、むしろ「なすべき立場」にあることなどは、改めて指摘するまでもないことである。

それ故そのことをもつて、かかる「指示」を和也はなし得ないとする理由などにはならない。かえつて原判決が大槻を運行供用者として認定する以上、北村とは程度の相違こそあれ大槻も、したがつてまた同人と同様の立場にある和也も、同じく運行につき指示・制御し得ることになるであろう。

(七) おつて蛇足ながら、原判決に関する疑問及び誤謬を二点指摘しておく。

その一は、原判決が維持・引用した第一審判決の「争点に対する判断」の「一1(三)」(第一審判決五枚目)では、「和也は北村に自動車を貸してくれと頼み、北村もこれを承諾した」とされている。したがつて、もちろん和也が「独立の使用権原を得た」とまで認定するのは「甚だ不自然」であり(原判決一四枚目)、誰もそのような主張はしていないが、「借受け」の事実を原判決が否定するのは自己矛盾ではなかろうか。

もし仮に否定していないのであれば、たとえ貸主同乗とはいえ、貸借という事実は和也の運行供用者性の判断に当たつてとうてい無視し得ず、むしろ決定的意義を持つ筈である。(もつとも「貸借」であろうとなかろうと、和也の運行供用者性は他の面から肯定されて動かないであろう。)

その二は、原判決摘示の「事案の概要」のうち「1(被告ら)(二)」(六枚目)の五行目に、「運転する資格があつたのは和也だけであり、同人のみが事故車の運転・運行に関し具体的に指示してこれを支配しうる立場にあつた」とあるが、傍線部分は明白な誤謬である。

上告人側は「同人も」と主張して来たのである。すなわち「事故防止について中心的責任を負い、運転交替・運転指示等を命じうる者は所有者、借用権者だけに限定されるものではなく、共同運行供用者中の唯一の運転資格者も該当するといえるのではないか」といつているのである(補助参加人控訴審第一準備書面六枚目表など参照)。

四 和也の運行供用者性

原審の確定した前記事実関係の下においては、和也はドライブの発案から実行、往路の運転に至るまで同行者中最も積極的にドライブに関与している。ドライブという「自己のために」及び共同目的のために運転に関与し、その利益を享受している事実のみをもつてしても、従前判例の流れにおいては和也の運行供用者性は肯認されて来た。

まして同行者全員が運転資格を持たない中で、全員の生命・身体・財産の安全を委ねられた唯一の運転資格者である以上、原判決のいう「走行速度の指示・停発車、進路変更、運転者の交替等の自動車の運転に関する指示」などはもちろん、同行者、無資格者などによる運転の禁止、中止、制限など運行による危険の具体化を「制御しうる立場」にあり、かつ「社会通念上、自動車の運行が社会に害悪をもたらさないよう監視・監督すべき立場」にあるとすらみられて、和也も事故車の「運行を指示・制御すべき責務」があると評価されるのではなかろうか。

この意味においても、本件事故車に関して地村はもちろん和也も共同運行供用者の一人であつたと解すべきであると考える。

五 共同運行供用者和也の他人性

1 共同運行供用者の一人が被害を被つたとき、同人は自賠法三条の「他人」として保護されるか(別表掲記の公刊判例参照)。

後掲最判昭五〇以前は、ほとんど無償同乗論における「他人性阻却説」の立場から、他人性を否定した(第一表A)。

その大半は車外の共同運行供用者の責任を追及する非同乗型事案であつたが、同事案に関する最判昭五〇・一一・四民集二九・一〇・一五〇一(いわゆるトルコ風呂事件)に至り、「具体的運行に対する支配の程度態様において、共同運行供用者の一方のそれが間接的、潜在的・抽象的であるのに対し、他方のそれが直接的・顕在的・具体的であるときは、その他方は一方に対し自賠法三条の『他人』であることを主張することは許されない」とする判断枠組みが示された。

同最判以後の非同乗型判例は第二表であり、ほとんどが右最判理論によつて他人性を否定されている。

その後車内の共同運行供用者の責任を基礎とする賠償請求事案(同乗型)が出始めた(第三表)が、同僚とドライブし途中で運転を交替してもらつた所有者が被害を被つた事案で、右最判理論に基づき他人性を否定した原審判断(後掲第三表No.六札幌高判)を、最判昭五五・六・一〇交民一三・三・五五七(同表No.七)は肯認して上告を棄却した。

その後、この同乗型事案に関して最判昭五七・一一・二六民集三六・一一・二三一八(いわゆる青戸事件。No.一三)が、次の判断基準を打ち出した。

「(共同運行供用者の一方が)事故防止につき中心的な責任を負う所有者として同乗しており、いつでも運転者である他方に対し運転の交代を命じ、あるいは運転につき具体的に指示しうる立場にあつたのであるから、その運転者が運行支配に服さず、指示を守らなかつたなどの特段の事情がある場合は格別、そうでない限り、具体的運行に対する支配の程度は同運転者のそれに比し優るとも劣らなかつたというべきであつて、かかる運行支配を有する者はその運行支配に服すべき立場にある者に対する関係において、自賠法三条の他人に当たるということはできない」。

本件は右同乗型事案に属する。

(主要参考文献として、加藤「共同運行供用者と自賠法三条の他人性」裁判実務大系〈8〉八四、同「運行供用者責任論の現代的課題」前掲一〇六、吉田秀文「自賠法三条の他人の範囲」判タ六二四・四八、福永「共同運行供用者について」交通法研究一七・一一〇、伊藤「共同運行供用者と他人性」の保険の現代的課題(鈴木記念)四四九、右最判二件の解説を含む多数論文など)

2 本訴訟事案の属する同乗型について別表第三表を概観する。

第一に、事故防止につき中心的な責任を負い、運転交替・運転指示を命じうる立場にある者は、当然最判昭五七にある通り所有者である。

No.三とその上訴審No.六・七(前掲最判)、No.一〇と控訴審No.一二、No.一一、No.一六、そしてNo.一三前掲最判昭五七及び差戻審No.一四が、所有者自身が同乗し被害者となつた事案で、すべて他人性は否定されている(No.四、No.八は右最判昭五七で覆された)。

第二に、同じく右の立場にある者は所有者に限られず、借用権など所有者等から独立の使用について明示・黙示の承諾を得た使用権者も同様である。

No.一、No.二、No.九、No.一九、No.二一(第一審No.二〇を覆す)などすべて他人性を否定している。

3 問題は、所有者等と同乗中の共同運行供用者で唯一の運転資格を有する者が被害者となつた場合であり、本件がそれである。

既にみて来たように、本件ドライブにつき主導的立場にあり、しかも唯一の運転資格者であつた和也は、所有者北村を含む同乗中のすべての者に対して「運転の交替を命じ、あるいはその運転につき具体的に指示することができる立場にあつた」ことはもちろん、それらの者の運転を禁止あるいは中止せしめ、制限させることも可能であつて、かかる指示・制御に対して誰一人として抗弁しうる者はいない。

このように和也は、所有者北村と並んで社会通念上、本件事故車の運行につき指示・制御、監視・監督を行ない、事故の防止につき中心的な責任を負つていたものであり、事故車の具体的運行に対する和也の支配の程度は、北村のそれに比して優るとも劣らなかつたものというべきである。(大槻による運行支配の程度より、はるかに優つていたことはいうまでもない。)

そして原審確定にかかる事実関係において、北村や大槻が和也の運行支配に服さず、同人の指示を守らなかつた等の特段の事情もない。

よつて和也は、北村、大槻との関係において自賠法三条本文の他人に当たるということはできないものといわなければならないと考える。 以上

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